その男を見た瞬間、恐怖にも似た戦慄が氷上哲士(ひかみさとし)の背骨を駆けのぼる。
出会ってはいけない、気づかれてはいけない。予感はそう告げている。
なのに、その男から目が離せない。

「…どないしたの?」
「え」
服をひっぱられて我に返る。恋人の蓉子(ようこ)が自分を見上げている。
「急に立ち止まって。なんやあったの?」

「いや」
首を振って、チラリと男の方を見る。冷たい2月の雨の降るなか、男は夢中でカメラを構えて
シャッターを切っている。
「あら、あんなとこで写真撮ってはる人がいるわね」
哲士の視線の先を読んだのか、蓉子は男に気がつく。
「知ってる人?」

「まさか。…カサもささんと、ご苦労なことやと思て」
「そうね。少し降りが強なったみたい」
蓉子はそう言って、哲士の腕に強く体を押しつけてくる。
蓉子の胸のマシュマロがひしゃげる感触に、いつもの哲士なら少しは反応を示しただろう。

が、今はただ一点にあの男のことだけが気にかかる。
「…まだ見てるの?」
「あ、ああ。もう一本、カサさそか?」
「ううん。氷上さんとこうしていたい」
「そう」

肩に手をまわし、濡れないようにカサをさしかける。歩幅をあわせてゆっくり歩くうち、
いつの間にかあの男がこちら側の歩道に来ている。
もうほんの数mの距離だ。

大丈夫、わかるわけない。俺は変わった。ひと目でわかるわけはない。
口のなかでつぶやきながら、男へと近づく。男は雨に濡れたレンズに視線をおとして、
一生懸命みがいている。
前を通る。通り過ぎる。

やはり、気づかなかった。ホッとした瞬間、
「哲士」
ビクッ。足が止まる。
おそるおそる振り向けば、その男、雪岡千紘(ゆきおかちひろ)がまっすぐこちらを見ている。
17歳の頃と寸分違わない、キラキラした瞳に真っ白な歯をのぞかせて、ニコニコ笑っている。
記憶の中の千紘が、17年の隔たりを飛び越えてそのまま自分の目の前に立っているかのような、
不思議な感覚だ。

「おまえ、哲士やろ」
「違います」
しかし、哲士はきっぱりと否定する。
「ええ?」
千紘は奇妙な顔をして、
「忘れたんか? 俺や。千紘や」

「いえ。人違いです。ほな急いでるんで、失礼」
千紘の目を見ずにそう言うと、蓉子を促して歩き出す。
「…ええの、今の人? ホンマに氷上さんの知り合いとちゃうの?」
「俺の知人にあんな男はいてない。それより、もうそろそろ門限とちゃうか?」
「あら」
蓉子は白い手首にブレスレットのようにはめている時計を見る。
「大丈夫。少々遅れたかて、お母様がうまいこと言い訳してくれるわ」

「一緒にいたいのはやまやまやけど、遅なって荒木常務に叱られるのは嫌やさかい」
哲士の言葉に、蓉子は勢いこんで、
「だいたいお父様は厳しすぎやわ。私かて、もう25歳やのに」
「手元におるのは蓉子さんだけやし、可愛くて仕方ないんやろ」
「せやかて」
不満そうに口をとがらせる蓉子をなだめすかしてタクシーに乗せる。

自分ではいっぱしの大人のつもりだが、蓉子は甘やかされて育ったワガママな娘だ。
大の男を手玉にとって、それが大人の女の証拠だと本気で思っているような、始末におえない
ところがある。
それでも哲士が辛抱づよく蓉子とつき合っているのには訳がある。

「ほな、おやすみ」
「おやすみなさい」
門前まで蓉子を送り、タクシーの中から手を振って別れる。
とたんに大きな吐息が出る。蓉子のつけていた甘ったるい香水の匂いが鼻について、気分が悪い。

「お客さん。疲れてはりますな」
哲士の吐息に、運転手が声をかける。
「まあね。子供のお守りはかなァんで」
「子供て、今の人のことでっか?」
「せや」
頭のてっぺんが薄くなった運転手は、ルームミラーごしに哲士の顔を見る。
「あんな美人、邪険にしたらバチあたりまっせ」

「美人、か」
ひとりごちて、
「確かに見た目はええけど、中身がな。あれじゃあ男は苦労する」
「そんなモンでっか」
「もっとも、女なんて中身はどうでも美人の方がええに決まってるけど。…次の角、右に折れてんか」



哲士にとって、女は連れて歩くためのアクセサリーに過ぎない。だから、今までつき合ってきた女たちは、みんな人目をひく美人ばかりだ。だが、彼女たちは単に美しい女を連れて歩いているという、哲士の自尊心を満足させるための存在にしか過ぎなかった。
あるいは、寒い夜の湯たんぽがわりだ。

しかし、蓉子は今までの女たちとは少し違う。蓉子の父は哲士が課長として勤める横川手建設の荒木常務だ。
精力的なこの常務を次期社長にと、社内の声も高い。
その娘ともなれば、利用価値は低くない。哲士が蓉子と結婚すれば、会社役員への道が拓け、ゆくゆくは社長職をも望めるかもしれない。
だから、蓉子とはどんなことがあっても結婚しなければならない。そして一日も早く、荒木常務を擁する派閥の中核に入らねばならない。

「ふぅ」
2LDKの贅沢なマンションに戻った哲士は、念いりに蓉子の匂いをおとしてバスルームから出る。
体の水気を丁寧にとって、パジャマを着て寝室に入る。ごく少量のウイスキーをグラスに注ぎわけ、
どっかりとベッドに腰かける。

一人になって思い出すのは、蓉子のことではない。
雨の中カメラを構えていた男、ひと目で自分を見分けたあの男、千紘。
「……」
千紘は、高校時代の同級生で、哲士が初めて愛した相手だ。

哲士は手の中のグラスを揺らしながら、当時のことを思い出していた。




  2011.08.03(水)


      
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