祝井園永遠(いわいぞのとわ)が死んだのは、春まだ浅い3月半ばのことだった。

信号が青にかわって横断歩道を渡り始めたところを、左折してきたトラックに乗っていた自転車ごと
巻き込まれて、即死した。享年23歳。ドイツ文学専攻の大学院生で、いつも穏やかな微笑をうかべて
いた、誰からも好かれる青年の突然の死は、彼を知るすべての人間に大きなショックを与えた。

通夜はその2日後。
芯から凍る氷雨の降るなか、永遠の死を悼む大勢の人が集まって、しめやかにとり行われる。
谷崎薫(たにさきかおる)も参列者の一人だ。薫は、葬祭場の玄関でコートを脱ぐと、左手に持って
中に入る。

「谷崎先生」
記帳を済ませ、斎場へ入ろうとした薫は、聞いた声に後ろから呼び止められる。立ち止まり振り
むけば、柚原慶太(ゆずはらけいた)がやつれた顔をして立っている。
「すんません、お忙しいところ来てもろて」

「いや」
あいまいに首をふる。
柚原は永遠の高校時代からの同級生で、大学では同じくドイツ語を専攻していた。大学のドイツ語
教室で教鞭をとる薫にとって、永遠と同様、教え子にあたる。
「永遠のコト、教えてくれて、おおきにな」

柚原は大学卒業後はドイツ語の翻訳物を扱う出版社に就職しているが、永遠は大学に残って大学
院に進み、薫から直接指導を受けていた。
永遠の死を知らせてくれたのも柚原だ。そうでなければ、今日の通夜には参列できなかったかも
しれない。
薫は低い声で、礼を述べる。

「ああ、いえ。僕も混乱しとって」
いつも明るい笑顔で周囲をなごませる柚原だが、突然の出来事に相当ショックを受け、混乱して
いるのだろう。すっかり憔悴しきった様子で、ただでさえ小柄な体がいっそう小さく見える。
「まだ信じられまへん。永遠くんが死んだやなんて」
消え入るような小さな声でそう言うと、きつく唇をかむ。

永遠が死んだのが信じられないのは、柚原だけではない。薫もまた、信じられないでいる。
柚原から連絡を受けたのは一昨日の夜。その後、どう過ごしたかわからないまま、今日この場に
来ている。

「すんません、見苦しいトコ見せてしもて」
ハンカチで目元を押さえ、鼻をすすりあげて柚原は言う。
「そろそろ始まりますよって、中にどうぞ」
そして薫を促がして、祭壇のある斎場へと入る。

前の席は血縁者で埋まっているので、後ろの一般席に並んで腰かける。やがて僧侶が入って
きて、祭壇前で読経を始める。
読経の続くなか、血縁者に続いて一般席の人が焼香に向かう。
薫も立って、柚原と並んで祭壇の前まで歩く。

白い菊に飾られた祭壇には、黒く縁取られた永遠の写真がある。写真の中で、永遠はいつもと
かわらぬ穏やかな笑顔を見せている。
ぼんやり痺れた頭のまま、焼香をし、喪主席に座る家族に向きなおる。
「どうも、このたびは突然のコトで」
型式通りのお悔やみの言葉も、自分ではなく、他の誰かが言っているみたいだ。

一礼し、頭をあげたとたん、分かっていたはずなのに、ハッとする。
永遠の父親の隣に立って、薫の礼を受けた男、祝井園瞬(いわいぞのしゅん)がいるからだ。瞬は
永遠の双子の弟だ。

「先生。こちら永遠くんのお父さんと、弟の祝井園瞬くんです。こちらは、永遠くんの指導をしてはる
谷崎先生です」
永遠の家族とは初対面の薫を、柚原が紹介してくれる。

「あなたが、谷崎薫先生、でっか…」
須臾、不思議そうな表情を見せて、瞬は薫の顔を見つめる。
永遠と瞬は一卵性の双生児と聞いている。くっきりとした二重の目も、形のいい鼻も、すこし厚めの
唇も、顔の輪郭も、薫とかわらないくらい長身なのに細めの体つきも、息づかいさえも、そっくりだ。
薫でさえ、永遠がそこにいるのかのような錯覚をおぼえる。
参列している永遠の大学関係者がざわついているのも、その所為だ。

「兄が、ホンマお世話になって」
「いえ。あの、お気おとしのないよう」
つぶやくように言って、一礼して自分の席へと戻る。

永遠と瞬とは、遠目で見てもそっくりだが、近くで見るとさらに似ている。双子の弟がいるとは聞いて
いたが、会うのは初めてだ。だが、これほど似ているとは思わなかった。
ああやって長い足をもてあますかのようにイスに腰かけている姿は、まるで永遠本人のように見える。
永遠が死んで葬儀が行われているのが、悪い冗談のように思えてくる。

…永遠。
「すまん。先に失礼する」
これ以上この場にいるのがつらくて、薫は隣に座る柚原に断ると、急いで葬儀場を後にした。



冷たい雨の降るなかを、自宅マンションまで戻る。
帰ってすぐに熱いシャワーを浴び、バスローブのまま水割りを作って、書斎に入る。黒を基調とした
広い机の右手、サイドボードの上にアクリルの写真立てがある。
薫はイスに体をあずけると、手を伸ばして写真立てを取る。その中には微笑む永遠の写真がある。

「永遠…」
小さく名前を呼んでも、答える声は、もうない。じわりと、涙がにじみ出る。

薫と永遠が初めて会ったのは、2年前の春だ。
その時、文学部4回生だった永遠は、卒業論文のテーマに近代ドイツの児童文学を選び、ドイツ
留学から戻って母校で准教授になったばかりの薫の指導を受ける事になった。

初めは、男にしては線の細い、キレイな顔立ちに興味を持った。それから、真面目な授業態度や、
研究に対する真摯な取り組みに好感を持った。
そばにいるだけで、心なごませる雰囲気や、穏やかな微笑み、素直な性格にも惹かれていった。

その永遠が、もうこの世にはいない。

コーヒーに半分だけ砂糖をいれる。考え事をするときに額に手をやる。何にでもマヨネーズをかける。
くつ下は右からはいて、左から脱ぐ。
全部、永遠のクセだ。

やわらかく響く声も、甘い花の香に似た匂いも、温かな唇の感触も、抱き合った肌の熱ささえ、薫の
中に鮮明に永遠の痕跡は残っている。

だが、もう永遠はいない。

体を半分にちぎられるような痛みと、深い喪失感とが、一度に薫に押しよせる。
薫は、このどうしようもない絶望感から逃れようと、水を飲むように水割りをあおる。2杯、3杯。
濃い水割りは、ますます胸の痛みを大きくする。

と、目の前で電話が鳴っている。出る気にはなれないが、大学からかもしれない。
「…はい」
受話器を取って、耳にあてる。

「あ、谷崎先生? 祝井園です」
永遠! それは、間違いなく永遠の声だ。だが、永遠の名前を呼ぼうとした口は、途中で閉じられる。
永遠ではない。弟の、瞬だ。永遠からは、もうかかってこない。
何度も自分に言い聞かる。

「はい。谷崎です」
だが、声の震えは隠せない。
「いまお電話、大丈夫でっか?」
「はい」
機械的な返事しかできない。

「今日はお忙しいところ、兄の通夜に来てもろて、ホンマありがとうございました」
「いや」
「それで、先生にお願いがあるんでっけど」
「僕に?」
「はい。月末の土曜日に、兄の遺品を整理しよと思てんのですけど、もしかしたら大学の研究
資料とか、大事なモンがあるかもしれんよって、先生に手伝(てつど)てもらいたいんです」

「それは…」
まだ永遠の面影が色濃く残るあの部屋に入るのは気がすすまないが、瞬の言うとおり大事な
研究資料があるかもしれない。
「どうです?」
「そういうコトなら」
しぶしぶ、約束する。

「ほな、土曜の午後。お願いします」
「わかった」
「ほな」
受話器を下ろす。思わず大きくため息をつく。
姿形だけではなく、弟の瞬は声まで永遠とそっくりだ。

こんなにも永遠が恋しい今、永遠とそっくりな瞬の声を聞くのはつらい。いや、本当ならもう少し
心の整理がついてから、瞬には会うべきなのだろう。
だが、行くと約束した以上、行かねばならない。

もう一度、受話器を見つめて、薫は大きなため息をついた。




  2012.02.04(土)


    
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