初めて人を好きになったのは、17歳の時だ。

相手は同じバイト先の、3つ年上の大学生だった。
深みのある落ち着いた声で、いつも穏やかな微笑みをうかべていたその人は、時おり誰も見ていない所で哀しい色の目をしていた。
…俺なら、そんな哀しい顔させんと、笑顔にするのに。

「ん…」
頭の上で、軽快な電子音がしている。伊藤慎(いとうしん)は半覚醒の頭でその音を遠くに聞きながら、今朝見た夢を思い出す。
懐かしくてほろ苦い、初恋の夢だった。
…なんで今頃、あの人の夢なんか見たんやろ。
もうどこにいるのか、何をしているのかも知れない人だ。

慎はひとつため息をつく。そして、ようやく目覚ましが鳴っているのに気づく。緩慢に布団の中から手を出すと、枕元を探って鳴り続ける目覚まし時計を手に取る。
「んっ」
もうとっくに起きる時間だ。慎は長い手足をいっぱいに伸ばすと、勢いつけて布団から出る。

慎の職場は朝が早い。おまけに今朝はミーティングをするから、いつもより早く来るよう課長から言われていなかったか。
「アカン」
一気に目が覚めて、慌てて朝の仕度を始める。顔を洗って歯も磨いて、ヒゲも大急ぎで剃る。男の一人暮らしの気楽さから、脱いだ物はベッドに放りっぱなしで、クリーニングに出しておいたワイシャツを着る。

「よっしゃ」
ネクタイを締めて、スーツに腕を通して鏡でチェックする。お世辞にもイケメンとは言えないが、30歳の男性的な魅力のある、いい笑顔だと自分で思う。
「ほな、行こか」
朝食代わりの野菜ジュースをひと息に飲んで、バタバタと部屋を出る頃には、今朝見た夢の事など
すっかり忘れていた。



慎の勤める健光(けんこう)薬品株式会社は、”健康は笑顔の源”をモットーに医療品卸売業を営んでいる。
その中で慎は営業部に所属し、MS(=Marketing Spcialist)という職種に就いている。簡単に言えば、製薬会社などの医療品メーカーから仕入れた医薬品や医療材料、医療機器などを医療機関や調剤薬局に卸す仕事だ。
単に医療品を販売するだけではなく、薬の効能・効果、医療制度、季節性疾患の流行状況などあらゆる情報を収集し、その情報を顧客である医療機関や仕入先である医療品メーカーへ提供する活動もしている。
そのため、取引品目に応じて広範囲な医療知識が求められる。

慎が担当している開業医や調剤薬局では診療時間・受付時間が決まっていて、その時間帯には
訪問出来ないので、朝の時間を使って資料を作ったりミーティングをしたりと、早い時間から出社
するのが当たり前になっている。
今朝は特に、医療品メーカーの担当者がこの春の異動で替わって新任の挨拶に来るので、早く来るよう言われていたのを思い出す。

「お早うございます」
元気な声で挨拶をして、自分の席に座る。大丈夫、間に合ったようだ。
「朝から元気やなあ」
パソコンの電源を入れると、隣から同僚の坂口が声をかけてくる。朝も早いこの時間は、まだ眠そうな顔だ。入社時期も前後していて歳も近い坂口とは、社内でもタメ口で話す。
「おう、お早う。俺の取り得は、明るさと元気だけやさかいな」
まあ、せやなとつぶやいて、坂口は小さく慎に手招きする。

「それより、聞いたか? 今日、新任の挨拶に来るMRの話」
MR(=Medikal Representative)とは、製薬会社に所属し医師や看護師、薬剤師などの医療従事者に医療用医薬品の情報を提供する専門職を言う。
慎たちMSは、さまざまな製薬会社のMRから自社の医薬品に対する情報を供給してもらい、それを元に顧客である医療機関や調剤薬局に卸すので、MRとは協力関係を築く必要がある。

「いや、なんも」
坂口にあわせて小さな声で応えれば、さらに声をひそめて、
「えらい”べっぴんさん”らしいで」
「は?」
目を見れば、ニヤリと笑っている。

「また。人をかついで」
「おまえと同じく開業医担当みたいや」
「ふうん」
MRとMSは医薬品の情報をやりとりするだけではなく、医師や薬剤師や看護師の所に同行したり、新しい薬の勉強会を開催したり、何かと接する機会が多い。同じ地区の開業医担当同士なら、なおさらだろう。

「ええなぁ。べっぴんさんのMR」
「そんなん、会(お)うて見てみな、わからんやないか」
「俺なんか、おっさんMRばっかしやで」
「アホか。だいたい、どっからの情報やねん。ガセネタとちゃうんか?」

苦笑まじりに言った慎の言葉に反論しようと、坂口が鼻の穴をふくらましたところで、
「そろそろ始めよか」
課長が立ち上がる。
「はい」
頷いて立ち上がり、連れ立ってパーティションで仕切られたミーティングルームへと入る。

連絡事項と売上報告、行動予定などなど営業的な打ち合わせが終わった頃、ドアがノックされる。
「課長、新任のMRさんがお見えです」
「ああ、丁度ええ。入ってもろて」
「はい」
顔を出した受付の女性は、どうぞと言ってドアを大きく開ける。

「お、べっぴんさんのお出ましか?」
「まだ言うてんのかいな」
坂口の言葉に苦笑して、慎は開けられたドアを見る。

「失礼します」
ひと声かけて入って来たのは、メガネをかけた男性だ。男性は長い手足をゆったりと動かして前に
立つと、深々と一礼して顔を上げる。
「初めまして。アトラス製薬営業部の八壁信彦(やかべのぶひこ)といいます」
整った顔立ちに深みのある落ち着いた声、穏やかな微笑みをうかべた桜色の唇、黒目がちな切れ
長の瞳は優しい光を宿している。

慎は八壁と名乗った男性から、目が離せない。
「この春の異動で、この地区の開業医担当となりました。MSさんと協力して、より良い医薬品を
ご提供出来ればと思てます。どうぞ、よろしくお願いします」
もう一度、深々と頭を下げる。
「こちらこそ、よろしく。弊社の開業医担当MSを紹介しますわ。伊藤」

「おい」
「は、はいっ」
男性の顔ばかり見ていた慎は、坂口に横から突つかれて慌てて立ち上がる。
「あのボーッとしたのが、うちのMSですわ」
「伊藤、慎です」
「八壁信彦です。よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします」
身を二つに折って挨拶する。黒く優しい瞳に見つめられている、そう思うだけでほほが熱くなる。

「まあ、あのとおり明るさと元気だけが取り得の男でっけど、よろしく頼みます」
「はい。こちらこそ」
穏やかな微笑みをうかべたまま、男性は小さく頷く。
間違いない。この人こそ、慎の初恋の相手、信彦だった。



慎が信彦と初めて会ったのは、17歳の時だ。
友だちの代役で行ったバイト先のコンビニで、信彦もバイトをしていた。当時、慎は高校2年生。サッカー部に所属し、周りには体育会系のガサツな人間しかいなかった慎にとって、信彦の深みのある落ち着いた声や穏やかな微笑み、やわらかな雰囲気は、そばにいるだけで癒される存在だった。

嫌々ながら引き受けたバイトだったが、信彦に会いたくて熱心に通った。
話す機会もほとんどなく、住んでいる所も通っている大学も、連絡先さえ知らなかった。
それでも信彦の笑顔を見るだけで、慎は幸せな気持ちになっていた。初めての感情に戸惑い、有頂天になり、悩み、苦しみ。そして、この感情が恋だと気づいた時には、もう信彦はバイトを辞めて会えなくなっていた。
以降、連絡先も分からず、噂すら聞かなかった。

その信彦と、こんな形で再会するとは。
「伊藤」
「え? なんや?」
仕事中だというのに、また信彦の事を考えていたようだ。坂口に呼ばれて、慌てて隣を見る。

「なんや、ボーッとして」
「かんにん」
「それ、八壁さんからの資料か?」
坂口は慎の手元にある書類を1枚手に取る。それは信彦が訪問して医薬品の説明をした先のリストだが、訪問日時や面談者だけでなく、説明の内容、その時の反応までこと細かにまとめてある。

「スゴいな、あの人。見た目は癒し系のべっぴんさんやのに、仕事ではやり手やな」
「ああ」
坂口の言うとおりだ。何回か現場に同行して医薬品の説明をしてもらったが、かなり専門的な質問にも言いよどみなくその場で回答する。
中には意地の悪い質問をする人もいるが、そんな時も信彦は穏やかな微笑みを絶やさず、誠実な態度を崩さない。
「かなり評判ええな」

「知ってるか?」
手に持ったリストを慎に返して、坂口は言う。
「あの人、難関の薬科大学の院まで出てるらしいで。薬剤師の資格はもちろん、博士号まで持ってんのやないかて、もっぱらの噂や」
「せやから、そんなネタ、どっから仕入れてくんね」
訊けば、意味ありげに口元を歪めて笑う。おおかた合コンで知り合った、信彦と同じ製薬会社の女子社員からの情報だろう。

「べっぴんさんいうのも、あながちガセネタとちゃうかったやろ?」
「ん、まあ」
「ああいうのを”才色兼備”て言うんかなあ。ええなあ、おまえは同じ地区担当で」
「言うとけ」
”才色兼備”は女性に対する誉め言葉だが、柔和で整った顔立ちに、薬剤師免許も持っている信彦にはふさわしい言葉のようにも思える。

「まあ、せいぜい仲良うしてもらい」
「せやな」
頷いて、再び手元の書類に目を落とす。
確かに信彦とは、MSとMRとして協力関係にあり、打ち合わせや同行などで顔を合わせる機会も多い。しかしそれは、あくまでも仕事の上だけの話だ。
10数年前、同じコンビニでバイトしていた事など、信彦はおくびにも出さない。本当に忘れてしまっているのか、それとも忘れたフリをしているのか。
穏やかな顔からは、うかがい知る事も出来ない。

だが何故か、その事を信彦本人に確かめるのは、はばかられる慎だった。




  2012.10.10(水)


    
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